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建築物ではなく地面が主役だぞという話

デザイン

皆さんこんばんは。

最近めっきり寒くなってきて彼女の温もりを感じることが増えました。

ほんと皆さん夜寒くて風邪引いたら大変なので恋人とくっ付いて寝てくださいね。

 

恋人がいないぞ?という人は人権が無いなら無いなりに湯たんぽでも買ってくればいいんじゃないですかね(丸投げ)

 

さてさて今回はランドスケープのお話です。

最近面白い話を聞いてそれについて色々話し合う機会があったので、考えたことをちょこちょこまとめます。

 

図と地の話

バルセロナパビリオンという建築物があります。

この建築物は明確な「部屋」がなく、壁によって空間が仕切られています。

本来「壁」というものは空間を断絶し屋根を支えるものだったわけですが、このバルセロナパビリオンは「柱」によって屋根を持ち上げることによって、壁を自由に使えるようにしました。

http://architecture-tour.com/world/spain/barcelona-pavillion/image1.jpg

architecture-tour.com

 

これは結構革新的なことで、昔の建築物だと「部屋」がそれぞれ別れていました。

これはベッドルーム、ここはリビング、のような感じで。

でもこのように部屋ごとの境界を曖昧にすることで「ここはベッドルームでもあるけれど同時にリビングでもある」という空間ができるようになりました。

つまり、昔は「room」だったものが次第に「space」に変化していったわけです。

*****

ルビンという心理学者の「顔と杯」という絵がありまして、見方によって人が向き合ってる絵に見えたり杯に見えたりというやつなんですが、一度は見たことあると思います。

この絵なんですがいわゆるゲシュタルト心理学というやつのアレで、絵に見えた部分のほうを「図」、背景に見えた方を「地」と呼びます。

で何が言いたいかというと、このゲシュタルト心理学の考え方がこれからのランドスケープに必要なんじゃないかということです。

 

図としての公園

都市の中のランドスケープを簡単にあげると「公園」と「広場」です。

いやいやほんとはもっとあるよ!!って感じなんですがここで挙げたものは図と地の関係を持っているものです。

 

本来公園っていうのは「緑地」でした。

芝があったり樹木が植えられていたりしたところが初期の公園であり、それが発展して今の公園になっていきます。

緑地という自然のものに幾何学的な模様やイギリスのピクチュアレスク式庭園の要素が盛り込まれていって今の公園になっていきます。

「ピクチュアレスク」というのは「絵に描いたような」という意味がありますが、ただの絵画的なものではなく崇高さを兼ね備えたものを指すことが多いです。

ちなみにピクチュアレスクの影響を受けた公園として有名なのでニューヨークのセントラルパークです。

話が逸れますが、イギリス式の庭園はフランスやイタリアのような幾何学式ではなく、どちらかというと日本に近いような自然式の庭園が多く、かつ新しいものではなく時を経て廃れていく様子などが美しいとされていました。

そのため大規模なピクチュアレスク庭園には大抵廃墟というか古い東屋というかそういうものがあります。

 

なんの話だっけ。

そう、公園は「図」なわけです。

つまり地図上で見たときに周りの建築物や道路に囲まれて公園という形が浮き上がって見えます。

地図上だけではなく、アイレベルでもビルの間を歩いていたらふと開ける空間があって、その開ける空間は公園で体験としてもその公園が強く意識づけられます。

セントラルパークとかまさにそうですよね。

ニューヨークの高層ビルの真ん中にドンと置かれていて、ものすごく存在感を放っています。

このとき僕たちは「公園を見ている=公園を図として捉えている」ことになります。

このとき周りの建築物や道路などは背景、つまり地です。

 

じゃあ広場はどうなのか、この広場が問題です。

 

図と地の逆転

20世紀初頭のモダニズムが流行った時代、都市開発もこの流れに乗っていました。

要はビルをバンバン建てたわけです。

すると広場は建築物の影に隠れてしまいました。

ビルとビルとの「隙間」ともいうべきようなものになってしまったのです。

今の日本でもこういう光景って目にすることが多いと思うんですけど、建物建てたら場所が余ったからなんか作るか、てな感じで変なところにベンチとか置いてあったりするじゃないですか。

いや座らねぇよみたいなところに。

公園と広場の違いっていうのは、いわゆる公園は郊外に作られることが多くて、そのせいもあって建築物に飲み込まれることが少なかったわけです。

郊外にまで建築物が建ってきたときにはすでに独自の形と自然を融合した空間として成立していたから地にならず図のままでいられたわけです。

 

しかし広場というのは常に建築と一緒にあって、切っても切り離せない。

そのうちモダニズムがやってきて建物が無秩序に建てられていくうちにそれらを引き立てる地になってしまいました。

 

地になることのデメリットは何か

さっきからさも地になることが悪いというような感じで話を進めていますが、そもそも地になると何がいけないのでしょうか。

ゲシュタルト心理学の話に戻ります。

ゲシュタルト心理学では、「図」も「地」も重要なものとして扱われます。

地がないと図が見えてこないからです。

ルビンの顔と杯の絵でも、白い背景がないと黒い顔が見えてこないし、逆に黒い背景がないと白い杯が浮かび上がってきません。

このように人間は一つ一つのものをそれぞれ個別で認識するのではなく、全体で一つのものとして捉えています。

これを建築と広場に置き換えてみましょう。

今の状況としては建築物が「図」で広場が「地」です。

しかしこれらは逆転することがなく、常に広場は建築物の引き立て役です。

つまり広場を認識することなく人は生活を送ることになります。

その結果、駅前やビルの間に作られたよく見るとおしゃれでベンチもあるような広場が誰にも利用されないという事態が引き起こるわけです。

 

「コミュニティーのために」と作られたものを誰も利用しないという皮肉な日常が街中には溢れかえっています。

つまり「地」になること自体は決して悪いことではないのですが、「図」になり得ないということは見捨てられ、引き立て役として処理されるデメリットがあるぞということなのです。

 

いざ広場を図に

広場を図にしているいい事例としてミラノのガレリアがあります。

https://zipantravel.com/new/italy/1/2.jpg

zipantravel.com

これは建築物と建築物との間にアーケードを作ることによって外でも中でもない中間的空間を生み出しました。

この空間は利用者の通路としても扱われますが、空間に面したお店が外に席を設けたりすることでより建物の中と外の空間を曖昧にしています。

しっかりと認識され、利用されているのです。

またこの空間は平面図で見たときにも非常に目を引き、しっかりと図としても役割を果たしています。

 

他にもどこだっけ、フィレンチェ?とかの広場もしっかり図として成り立っています。

あ、ミラノだったかも忘れた。

 

ランドスケープの図と地は視覚的にというより体験を通して認識されます。

そのため、人がその場を訪れて「ここにも空間がある」と気づかなくてはいけないのです。

認識されて初めてそれは「図」となります。

 

まとめ

眠いわ。

10時ぐらいに布団に入ったら2時ぐらいに目が覚めてもうこんな時間ですおはようございます。

何が言いたかったかというと、それぞれの空間がちゃんと意味を持って互いを引き立てあって存在しなくちゃいけない、当然それはものすごく難しいしなかなか出来るようなことではないけれど、でも僕のような若い人間がそれを目指してやっていかなきゃなァということでした。

眠いんだって。

インフルエンザ流行り始めたらしいので皆さん体調にはお気をつけてください。

 

ではでは。